本当に大切なことは...
さて今日は何を書きましょうか。
また自分語りにはなりますが、勉強より会話の方が大事なのでは、という内容にしていきましょう。
上の記事でも書いていますが、人との会話とかコミュニケーションなどよりも勉強に重きを置いた学生生活を送っていました。
文庫本や哲学書っぽい本を読むとそのことが思い出されます。
本を読むのは楽しい。
物理学、時間、論理、宇宙、生命、歴史、社会問題、経済、文学、、、、、様々な本を読んで知見を得られるのは知的好奇心を満たす快感行為でした。
それが最も楽しいことだと思っていたのですね。
そういった楽しみがあることは悪くない。
けどそればっかりが良くなかった。
他者と会話するスキルは全然ない。
話しかけられても上手に受け答えできず、こちらから話しかけることも出来ない。
そもそも話すことが楽しいことだと思っていない。
会話することが、内容のあることならいいけれど、中身がないのならやる理由がないと考えていたのです。
今ではそれは間違いであったとわかります。
別に内容はそれほど重要ではないのですね。
会話の「やりとり」をしている、その状態そのものが大事なのです。
内容がなければ話してはならないなんてルールがあったら誰とも接触できません。
会話そのものに中身がなくても、2者あるいは3者以上間では非常に多くのコミュニケーション情報が行き交っています。
声のトーン。表情。体の動き。その人のもつオーラ。
言葉を介すること以外で相手の情報を得ていきます。
相手との接点を保持する。接触を保っておくことで、「大事」な話も出来る。
友情だとか友達とかいう前に、「やりとり」が出来る関係であったのか。
その接触を繰り返していないで相手に友達になってくれと言えるわけがない。
自分の存在感を感じないで育ってきたのも当然なわけです。
そういや過去にこんなtweetがありました。
大学に在籍していた頃、学部の人達の会話を聞きながら、よく会話が途切れないものだと思った。当時の私は人と話す、というか人と話そうなどという気がまるで無かったので、人生的には遅くにショックを受けた。
— 自由謳歌中 (@Y_synchro) 2012, 4月 25
2012年の私も気付き始めています。
「情報」は工業製品だけど、「関係」は農業だからね。「これをすると効率よく関係が強化される」と思っても、なかなか上手く栽培できるモンじゃないw農地の開拓だから無駄になることもいっぱいある。とりあえず土を触ることを怖れないこと。 #otakingex
— 岡田斗司夫@「カリスマ論」 (@ToshioOkada) 2011, 10月 12
理屈は理解していたみたいです。
両親や誰かからきちんと教わっておくべきだったのかもしれません。
他者と接触することを。
いや、もしかしたら教わっていたかもしれないけれど、聞く耳をもっていなかったのかも。
とことん自分のやりたい方向に向いていたはず。良く飽きなかったものだ。
自分の巡り合わせとか、性格とかいろいろありますが、「やりとり」するスキルって実は必須なんじゃないですかね。
これを理屈で教えてもらっていたら...と考えないでもないです。
そもそも会話することで身につけていく能力だから、親をはじめとしていろんな人と会話をすることでわかっていくはずなんですが。
親は私に勉強を教えた。
いや、批判するつもりはないですよ。ただ整理しておきたいだけです。
私がどれだけの影響を親から受けたのか理解することで、自分に足りないものを認識し、より自立した大人に近づく。そのための整理です。
ともかく、今の段階でも気づいたならやり始めるべきなんでしょうね。