良文を読んでも、いい文章が書けるわけではない
自分の実力のなさにぶつかる日々です。
文章を読んで感動したり、良い映像や優秀な人の仕事に触れても、それで自分がよくなるわけではありません。
よい影響は受けます。
幼少期から、優れたものにはそこそこ触れてきたはずです。
読書、映画鑑賞、音楽...
私もこんなことやりたい!と思ったことは1度や2度ではありません。
インターネットを使うようになって多量の記事に出会うことは出来ました。
優れたコンテンツに出会える可能性のあるインターネットは、確かに多くの情報を私にもたらしてくれました。
(本格的に使い出したのは大学に入った2005年くらいからだから、約10年くらいの歴史がある。これはこれで遅いくらいだけど。)
「大学でインターネット使い放題」は、当時の私には格別のものでした。
それまでずっとi-modeだったのですから。
i-modeはそれはそれで、当時は活発に使っていました。2003くらいから?
優れた記事をプリントアウトして残していました。当時はアナログでしたね。
今じゃEvernoteですか。10年の内にいろんなサービスが出ました。はてなBookmark、YouTube、Twitter、iPhone、iPad...
なんだか年寄りの会話みたいな気分になってきました。で、良い文章の話です。
「優れた文章の書き方」などはネットでも書籍でも沢山出ています。私も幾つか読みました。
けど今すっかり忘れてる。
何にも頭にない状態で書いています。
まあ確かにそれでは面白くもならないはずです。
読んだことが、身に付いていない。
せいぜい、「毎日書き続ける」ことぐらいですか。出来てることといったら。
とにかく、書くこと。
書くかどうか悩まずに、書きながら書くことを放出していき、書くことをやめない。
会話で話が途切れるのを避けるように、文章を書き綴っていくのです。
それが今現在のブログの書き方です。
...そうは言っても途切れないように会話を続けまくった経験ってそんなにないです。その分ブログではやります。
話し方に口癖があるのと同時に書き方にも書き癖があります。
つい同じフレーズを使ってしまう。
同じような文章構成になってしまっている。
本来全体の構成を考えて記事を作っていくのですが、会話をそのまま書いたような内容だから散文としか思えない状況です。
自分で書いてるよ。この時の考えどこに行ったの?
自分の書き方についても書いていきます。どうせ誰も指摘してくれないのだから、自分で指摘するしかないのです。
少しでも、自分で自分に影響を与えていく。個人でやるからには、それくらいのことはしなければならないのです。