子供の頃からの夢を叶えたら、大人になってからの夢を叶えよう
だいたいタイトル通りの内容です。
どんな夢を持つかは人それぞれです。
夢ではなく目標や目的などの言い方をする人もいます。
夢など持っていない人もいます。
さて私ですが、この1年好き勝手に暮らしてある種の虚無感があります。
仕事や用事に縛られる事も人間関係にストレスを感じる事も少なく、自由に、ある種幸せに暮らしていました。
これこそが子どもの頃から思い描いていた夢だったのではないかと、途中から気付きました。
学生時代は学校や受験にスケジュールを縛られ、仕事をやり出すと仕事にスケジュールと体力を奪われます。うんざりしていました。
自由に本が読みたい。自由に映画を見たい。自由に音楽を聴きたい。
日々欲望に追われます。
その欲望を叶えるために自由な身分になる。この選択は間違いではありませんでした。
自由になれば楽しいものです。遊びも読書も仕事するのも、誰からの指図も必要とされません。全て自分の裁量です。この感覚は確かに楽しい。
ですが数ヶ月もすると多少飽きてきます。
毎日同じ事を繰り返しています。
目的意識を持たないまま瞬間の欲望に従って動くことは、大きな刺激を生み出しません。
〜〜のためにこれをやっている、と思えるものがあるから行為に価値がある。そんな行動をすべきだったのではないかと考えています。
(もっとも、賃金労働していた頃に刺激があったかというとそれも違います)
結局人間は「無意味」に耐えられないのだと思う。森羅万象からいったん意味を剥ぎ取って客観に至ろうとする事を科学的態度だとするなら、客観的事象に意味を持たせる事が宗教や芸術の役割なのかもしれない。
— 竹熊健太郎《一直線》 (@kentaro666) 2011, 11月 3
はい。私も無意味に耐えられません。
無意味であるもの・無味乾燥な生きていることに意味付けすることを人類はずっとやってきたのでしょう。
私もこのブログを書くことで、少しでも自分のやっていることに意味を与えようとしているのかもしれません。
意味のある毎日を送るーその為に夢や目標が必要、いや利用すべきなのかもしれません。
しかしこんなことを書けるのは私の夢が非常にチャチなものだったからではあります。
タイトルは何か大したこと言っているように聞こえるかもしれませんが、実際はだらけた毎日を送るなよと言ってるだけです。
で、次の目標を達成したらまた次の目標に向かい、それが終わったらまた次で、・・・を死ぬまで繰り返すのですね。あ、また無意味感が襲ってきた。
夢や理想や目標を叶えても人生は続く。私の生が終わっても世界は続く。
— 生存疾走 (@Y_synchro) December 18, 2015
だから未来に対して投資を続けなきゃならない。
いばや通信の「人生は続く」が身に沁みる。
先のことを考えても仕方がないのか、見据えて動くほうが良いのか。どっちなのでしょうか。
どっちも、という気がします。幸せを感じるとか楽しさを味わうのはその時だけのものなので生きている今を楽しくする必要がある。蓄積によって作られるものもある。
無意味感がずっと漂っていますが、それを面白くするのは本人次第。
自分の人生が幸せだと思う人は幸せだし不幸だと思う人は不幸。
— 生存疾走 (@Y_synchro) December 21, 2015
世界全体は明るいわけでも暗いわけでもなく、見る人次第。
そろそろ本の感想も書いていきます。自分語りは楽な部分もありますが、内輪でやっている感も出て少し辛いです。そもそも他の対象について語っても私の意見は出てしまうのでそちらのアウトプットも増やしていきます。