自分の放つ言葉は、自分の中に明確なイメージがある言葉でないと、力を持たない
自分が明確なイメージを持っていないと、明確な言葉にならない。
そのことを、最近痛感しています。
相手にやって欲しいことがある。
例えば、テーブルの上の布巾を持ってきてもらうこと。
「布巾持ってきて」では”何の”布巾かがわかりません。
「テーブルの上の」がなければ”どの”布巾を持っていけばいいかわかりませんよね。
自分にとって目の前にあるものはテーブルの上の布巾だけなのだから、布巾といえばそこにある布巾に決まっています。
しかし他者からすればそうではない。
在庫の全く新しい布巾か、キッチン台にある布巾か、はたまた鍋敷き替りに使っている布巾か、明確ではありません。
明確であるというのは、自分から見て、自分の世界観から見てではなく、複数の他者から照らし見てはっきりとそれであると認識できるものです。
更に、対象に情報量が詰まっていること、とも言えるでしょう。
食事に使うテーブル上の、北西方面角から10cm距離の、花柄の、昨年初頭にAmazonで買った、さっき水拭きして濡れている布巾とでも言えば、多くの人が発言者の言いたいことを理解できるでしょう。
自分の持っているイメージ・世界観と他者が持っているイメージ・世界観は違います。
違うから、自分の思い込みで話をすると、間違ったイメージを相手に持たれます。
違うから、違ってくる。
だから、自分の思ったことをちゃんと相手に伝えるためには、自分がただ思った通りに言うのでは、間違って伝わる可能性が多くなります。
誰から見てもはっきりしたもの、これが発言者の言いたいことなんだと思える明確なもの。
そうでなければ、あいつ何かわかんないこと言ってる、で終わるかもしれません。
同じ言葉でも、2人いればイメージが2通りになる。
同じイメージを共有するには、勝手な解釈を許さない明確なイメージになる必要になる。
それは相手の為だけでなく、自分の為にもなる。
自分の言いたいことが何なのか、自分が思っていたことが何なのか、自分が感じたことは何なのかがはっきりわかって、行くべき方向性を示してくれるのです。