自分が何者かはっきりしていないと、誰とも話せない
また自分自身について考えさせられることがありました。
父の参加するイベントを手伝うことになり、現場で作業することになりました。
見知らぬ面々。
コミュニケーションや会話を取らなきゃいけない。
挨拶くらいはしますよ。
けど私は相手の素性を聞いたり、イベント関連の話をしたりしない。
名前さえ聞かない。
そこに人がいるのに、です。
人同士が接触するのに、何らかの会話が発生するのは当然だし、そうであるべきだと思ってます。
挨拶→自己紹介→なぜこの仕事・作業をやっているのか→好きな事の話題→お互いを知るための質問.....と互いををよく知って連携が組めるようになっていくものだとこの私も思っていますよ。
何でそれをしないのかという答えは、過去に出しています。
自分のことを知られたくない。
その思いがずっとある。
仲良くなりたい気持ちより、一人でいたい気持ちがずっとある。
ただの戦力、ただの駒として運び手になりたいだけだと、私は思っている。
名乗ることも、名前を聞くことも怖い。
何がきっかけでこのイベントに参加しているか、聞くことも怖い。
実際、聞かない方が正解かも知れません。
私同様、素性を知られたくない人もいる可能性はありますから。
これでいいのかと思っている自分もいる。
私自身が、一人でなくそこに存在しているという稀有な状態がありながら、何の交流も生み出さないことを。
この思いだって確かに私の心である。
さあ、私が堂々として、見知らぬ人間と楽しく交流することは、どうすればできるだろうか?
まず私は自分自身を名乗ることを嫌がっている。
これでは何も始まらない。
自分を名乗り、自身が何者かを示す、自身を問われても動じない人間である必要があります。
つまり、自分が何者であるか理解していないといけない。
自分の名前。
出身。出自。何をしているか。何をする人か。
何を目標としているか。何をしてきたか。
なぜ自分がここにきているか。
みんなが集まるこのイベントをどう思っているか。
この世界に対してどう思っているか。(必要かな?必要かも)
時事問題。野球の話とか。
途中から只の会話のネタだ。
どうであれ、「自分が何者か」がわかっていないと、自分を社会にアピールすることができない。
自分の存在を相手に覚えてもらうこともなければ、覚えてもらおうという気すら起こらない。
これが大人になるってことか。