信じる、という言葉の裏には、理解していないという意味があるのでは?
人を信頼するとか、信用するとか。
一人ではできないことをやろうとする時に誰か他者の助けや協力を求めることはあります。
組む相手に能力がなければ邪魔になったり、足手纏いになったりします。
だから相手を知ろうとする。
相手の能力を測ろうとする。
もし、完璧に相手と相手の能力を知ることができれば。
できることとできないことの分別がつくから、相手を(ほぼ)完璧に使いこなすことができる。
自分の想定の範囲外のことが起こることはないでしょう。
ほぼ。ほぼね。
そんなこと希少ですよ。
他者を完璧に分かるなんて。
できるかもしれないけど、相当な時間がかかります。
それでも誰かと組まなきゃいけない。
その時は、相手と組んで、上手くいかなかった場合のフォローや、悪い結果も受け入れる覚悟や準備が必要になります。
それが、「信じる」ということだと思うのです。
想定外のことが起こる。その現象に対処する。
対して、物事や人物をよくわかっていれば、知らないことが減ります。
何をやるべきか、何をやるべきでないかわかっている。
裏切られたなんて感じることはない。
多分、人間関係で大事なのは信頼よりも理解だ。
「信じる」ことより、「知っている」ことの方が価値がある。
信じているということは、まだ理解していない、知っていないってことでしょ?
理解するのには時間がかかります。
一生かけて理解できないってことの方が多いでしょう。
だから理解している時間より、信じている時間の方が長い。
理解より信頼で済ませてしまう。
けど理解に向かわないと、自分の心が苦しくなることが多くなる。
とりあえず、今はこんなところでしょうか。
後々この話の続きも書いていきたいです。
宗教の信仰心も、この「理解に到るまでのプロセス」なんじゃないだろうか。