相当現実感のないまま過ごしてきたと分かる2015年
今日は現実とか、現実感をテーマに書いてみます。
人は見たいものしか見ないし、見たもの・見せられたものが現実なんですね。
— 自由謳歌中 (@Y_synchro) December 15, 2015
世界には様々な現実があります。
紛争・テロで苦しむ人々。仕事に追われ汲々としている人々。働かなくても利息だけで十分食べていける人々。自由な働き方をして楽しく暮らしている人々。年金の範囲内で細々と暮らしている人々。
様々な人がおり、その様々の分だけ現実があります。
それが他者の現実と交わる場合もあれば、そうでない場合もある。
サラリーマンをしている人は他の業種の人々と関わる機会は少なく、映画に興味を持っていない人は映画を見ることもなく映画好きの人と触れ合う機会も多くなく、本や新聞を読まない人は社会情勢を知ることもないでしょう(例外はもちろんあります)。
自分と関わりがないものって、「見えない」んです。
まるで世界に存在しないよう。
自分の周りにあるものだけが「現実」である。
これはこれで仕方ないことです。
なぜなら自分の身の周りにあることは自分自身に影響を及ぼしますが、遠く離れた世界にあるものは然程影響を与えません。
近接性のあるものが身を取り巻く現実。
人と関わっていくと、この「現実感覚」の違いに戸惑います。いわゆるカルチャーショックとも言われるものです。
相手にとって重要なものがこちらにとってそうでなかったり。
逆にこちらに重要なことが相手にとってどうでもいいことであったりします。
自分に見えていないものが相手に見えている。
自分に見えているものが相手に見えていない。
2つ以上の感覚がぶつかった時、どちらが正しいか迷います。
私が間違っているのか、相手が間違っているのか。
まぁ、おおむね経験知の多い方が正しいのですが。
経験している、とは、現実感がある、という意味なのでしょう。
(だから、私は私のおかしさに向き合わなきゃならない)
この現実感を断ち切ろうと思えば断ち切れます。
「時間が来たら仕事をしなければならない」という現実も仕事を辞めることでその感覚を断ち切ることができます。
「テストの為に勉強しなければならない」という感覚も勉強よりその場の欲望を優先させることでその現実から逃れることができます。
「毎日定期的に掃除をする」なんて現実さぼりゃいいんです。
周りから催促されたり、自身の気付きがなければ、この現実は迫ってきません。
世間から見て異常でも、本人には問題がない状態。
まさにこれが現実感がない状況でしょう。
ふと外にある現実状況を知ると、私が如何に現実感がない状態で過ごせてこれたかがわかります。と同時に、その現実を跳ね除けることもまた出来ることを再認識します。
この”現実”はなんなのでしょうか。
私が外と関わればそれは実感を伴ったものになり、関わりを拒絶すればそれはもう”ない”ものとなる。
やろうと思えば出来てしまう。
この感覚。
現実との関係をコントロール出来ない人がいる一方で、私はやろうと思えば出来る。
ある種の特権みたいなものと同時に、怖さも感じます。
2015年、私は関わるものが少ないから、現実感に乏しい生活となりました。
この現実に触れ合っていないが為に幼少期からずっとモヤモヤした感覚が身についたままです。
これを脱する為には、現実に追いかけられる立場になるでなく、今度はこちらから接近していって、追いかける立場になるべきではないかと考えています。
Netflixで映画見ちゃった。
ガメラ 大怪獣空中決戦(1995)
ガメラ2 レギオン襲来(1996)
3はあまり面白くないので飛ばしで見ました。映像は圧倒的に面白い。
アリーテ姫(2001)
ずっと見たいと思っていて見てなかった作品です。
派手さはないけど何か心に残る作品。原作を読みたくなりました。
- 作者: ダイアナコールス,ロスアスクイス,グループ・ウィメンズ・プレイス
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吸血鬼ゴケミドロ(1968)
普通に面白い。特撮も。映画で分かり易いのって大事。ラストは世界大戦争(1961)みたいにハッピーではない。
ほしのこえ(2002)
今更見れた。Netflixは便利だ。今日沢山見たからふ〜んとなってしまった。まだまだ書く技量が足りません。