感情の暴走を時間制限の強制で止められるか
さて、上の記事を書いて以降、どうやって自分を思い通りに動かすか考えています。
感情で対抗すべきか?
自分の中から出てくる感情を、他の感情によって押さえ込み、行きたい方向へ導くやり方。
エネルギーがかかりそう。
それだけの感情を調達出来るのか?
やりはするけど。
外部の力を使えないか?
いくら感情の力が強いと言っても、外部の世界までコントロール出来るわけではありません。
外部から影響や強制を受ける。
- どれだけお腹が減って食べたくなっても、仕事中なら食べれない。
- 眠りたくなっても、徒歩で家に帰っている時は、帰宅するまで眠れない。
- 音楽を聴きたくなっても、他にやるべきことがあればそれをせざるを得ない。
などなど。
暴れる川に防波堤を作ったり護岸工事をすることで綺麗な流れにするように、外部の肩を使うことで正しい方向に自分を導くことも出来るはずです。
なんらかの強制
何か自分に強制すべきなのです。
内部の意思でコントロール出来ないのなら、外部の環境を使う。
自分を制御してしまう外部の環境を整える。
自分をコントロール出来なくても、自分をコントロールするものをコントロールすることは出来るのではないか。
時間制限・時間制約がその機能を果たすのではないか。
そう考えています、
ブログによる整理
さて、ブログを使って自分の頭の整理をするのだと、過去に何度も言ってきました。
今またその時期が来ました。
手帳に書きたいことがたくさん溜まって吐き出したいものが多いのです。
書いていきますよ。これから。
とにかく、ネタとして眠っているものは書ききってやる!
私は感情に支配されている
ひとたび感情が動き出すと、自分を止めることができない。
何かの本で読んだ記憶があります。
実際、私が思い通りに生きていないのも、感情の働きによるところがあるはずだ。
備忘録も兼ねて、今日の20:00から起こったことを書いてみます。
20:00まで
20:00までは完璧だったんです。
労働も、風呂も、食事も、掃除も、買い物も、全てがうまくいっていた。
風呂が終わったくらいのタイミングだろうか。
遊びたくなる。
いやいや、そういうわけにはいかない。
掃除をし、洗濯物の回収と干しを終わらせて、食器を洗う。
あとは、古いPCを売りに出す作業をする。
はずでした。
しかし目的不明の行動をとり、お菓子も食べ、Youtubeをずっとみる始末。
何があったのか?
髪を乾かす行為
髪を乾かす行為に一つのヒントがあるのかもしれない。
髪をタオルで巻き、ドライヤーを当てる行為が、私の中の何かの感情を引き起こした。
頭を温めるのがよくないのだろうか?
昨日に引き続き、生産的行為をできなくさせた。
昨日は寝たからまだマシだけど、今日は良くない。
このタイミングで、お金儲けに向かうではない別の感情が湧き起こる。
覚えておく。
感情には感情で対抗すべきか?
ある感情が湧き起こると、理性や合理性では太刀打ちできなくなる。
- お腹が減った。
- 寝たい。
- 逆に眠りたくない。
- 動画を見たい。
- 音楽を聴きたい。
- ボーッとしたい。
- ゲームをしたい。
- ただ寝転がりたい。
- 気になったことを検索したい。
などなど。
感情に流されれば、もう逃げられない。
ほとぼりが冷めるまで、情の勢いが続く。
このせいで一体今までどれだけの時間が無駄になってきたのだろう?
何年この状況が続いているのか?
しかし、いつまでも同じ失敗を繰り返しているわけではありません。
自然な感情の流れに逆らったのも、感情の力でした。
目標を描き、それを達成した姿をイメージする。
日々のこなすべき作業に情熱を持つ。
これを繰り返したおかげで、生活の生産性は上がりました。
今考えれば、これはこれで情熱や感情の力を使っていたんだなとわかります。
そう、自分がやる気に浸されていれば、辛いと思っていたことでもやれる。
逆に情熱の炎が消えれば、なんでもない簡単なことが苦痛になります。
(忘れてやらないということでもある。)
悪い感情に支配されるのなら、それを良い感情で書き換えてしまえばいいのか。
それとも、その悪い感情が起こらない仕組み・環境を作るべきなのか?
どっちも要るんだろうな。
それにしても、明確な目標を立てたのに、感情に邪魔され忘れてしまって、行動に繋がらず、時間を無駄にする日々がまだ続いている。
目標に向かう感情が足りない。
こっち方向の感情は足りていない。
髪を乾かしている間に忘れてしまっている。
忘れていないはずなのに、遊びたい側の感情が、思考力を低下させた。
間違いなく、次にするべき行動を忘れさせた。
こうなると計画も無意味だ。
この「本能の自分」の情動に、「考える私」の思考が勝っていない。
勝つだけの思考をしていない。
足りていないのは明らか。
本能側の自分がとてつもなく強いと分かった以上、思考もとてつもなく強くならなくてはいけない。
理性の力を借りつつ、感情の力を高めていきます。
他人事をどれだけ自分事と思えるか?
仕事なんて他人事だ〜〜〜!!
言ってしまえば。
何度もそういう機会はありました。
その度に「これは仕事だから」と自分に言い聞かせ、やり遂げてきました。
でもほんとはおかしいんじゃないか?
「仕事」は自分の管轄範囲のこと。
つまり自分事です。
自分事と思う必要があるはずです。
そう思ってやってきただろうか?
自分の使命だと思って、そう思えてやってきただろうか?
そこまで深くコミットメントはしていない。
決められた手順に沿ってやってきただけだ。
もうこういう仕事の仕方はしたくない。
で、これは対人関係にも言える事です。
他者が悩んでいたり、苦しんでいたり、困難に立ち向かっている時に、私はその人の痛みが自分の痛みであるかのように感じているだろうか?
本人以上に本人になりきって考えているだろうか?
そうやって考えるに値する人と関係を築いているだろうか?
おそらく、他者の関心を自分の関心事だと思えないと、良好な関係は築けない。
とことん相手の側に立って考えるから、目の前の相手の役に立てる。
意味のある、実りのある関係性を、お互いが持つことができる。
少なくとも他者の役に立てる私にはなる。
その為に、自分のことの整理ができてある状態が必要と、このブログでなんども書いてきました。
2018年も終わり、自分の決着がついた今、他者の為に頑張れる私であるはずなんですが、、、、、、、。
体重と食事コントロール
1食抜くなど、食べる量を減らせば、体重は減る。
お腹が減りすぎると、パフォーマンスが下がることがある。
体重が増えると、当然体が重くなって動きづらい。
さて、どう食べる量をコントロールするか。
全く食べないというわけにはいかない。
不必要に食べるのも違う。
体重減少のために食べないというのは正しいのだろうか?
メリット・デメリットある。
メリット
体が軽くなって動きやすくなり、体も気持ちよくなる。
デメリット
単純にエネルギーが減る。お腹が空くと食べることばかり考えるようになる。
これ、メリットだけを得る方法があるんじゃないか?
少ない食事で十分なエネルギーと満腹感を得られる方法。
いつか検索しよう。
(いつになるのか)
いくら生活能力が上がろうが、仕事しなきゃ意味がない。
昨年はブログを書くことに集中し。
今年1月は生活能力を向上させることに頭を使いました。
その結果、急にお腹が減って外に出かけたり、部屋が片付いていなくてイライラしたり、洗濯物がたまっていてうんざりすることは少なくなりました。
日常の用事が未処理でいることが仕事の大きな足枷になっているとわかっていたので、日常用事問題の解決に取り掛かりました。
成果として、そこそこのものを得れたと思います。
仕事をする為の時間を確保することができました。
それなのに。
それなのに。
仕事が進まない。
仕事の為の時間を作って仕事をしないんじゃ意味がない。
お金儲けを目的にしている。
お金儲けのために頑張ってきた。
そうであるのに日常作業ばかり頑張って仕事しないのでは、本末転倒だ。
自分のことを差し置いてでも仕事をすべきなのに。
意識の向かう先を変えよう。
日常作業ではなく、仕事をしているかに関心を向ける。
仕事しなきゃ意味がない。
家事遂行能力は十分にある。
ここはほぼ自然に出来る。
これからは、仕事。
ルーティンは情熱を使わなくても出来るようにする。
昨年の上の記事に書いたように、ちょっとの物事、それも毎日する作業に思考の力を使わなければいけないとなると、エネルギーがどんどん無くなります。
毎日の作業は、考えもせずに出来て、終わっている、という事が望ましいです。
それが少し出来かけている。
最初のうちは毎日の日課をメモ書きにしてそれを見返す状態だったものが、見なくてもできるようになって来た。
スピードも上がる。
もっと成長する。