生存疾走更新

お金持ちになることを目標に 仕事に進行中。不定期更新中。

I から We へ

今回は家の用事で思った事を書こう。

ここ数日大掃除をしたり、父・母が出来ない仕事をやった。
基本的に私は「誰かの仕事」をやるのは好きではない。
 
 
「誰かの仕事」は他人事であり、自分のやらなければならない仕事ではない。
もしやるとなればきちんと説明を受け、自分が納得したらそれを行う。
そうしようと思ってきたし、そうしてきた。
 
なので、自分に関係ない仕事なら可能な限り断りたいのだ。
 
 
 
 
来たよ。あれしてくれ。これしてくれ。
 
 
 
その場から逃げるという選択肢も合った。
しかし、当日の私には時間があった。
 
仕事はした。
仕事をする時間があったから仕事をした。
やらなきゃいけない仕事があって私は出来ないと言えば、母も納得はしてくれただろう。
ま、そんな時は全然作業が進んでいないのだけど。
つまり、私がいなきゃ進まない作業がある。
逃げられないのだ。この仕事は。どうせ誰かがやらなきゃならない。私がやらなかったら誰がやるのだろう?
用事がある。やらなきゃいけない作業がある。
それを行う為には、行う為の時間と労働力が要る。
なので私が呼び出される。それは分かっている。私が断ったら作業が進まない事も分かる。
それでも私が嫌だと思ったら?やりたくなくて逃げたら?
出来るけれども、出来ない。
やらざるを得ない。
実際にやり始めれば、やるべき事が分かっている時、指示された通りに動いていればいい時というのはまあ楽だ。
ふてくされていようが、怒っていようが沈んでいようが頭使わなくて言われた通りやってればいいのだから。
が、そんな風にはいかない。
なんせ動かす物の量とやるべき事の多さ、やるべき事の細かさが原因していちいち母に聞かなければならない事が多い。
面倒だ。
作業は中々進まない。
 
やりながら思った。
母のやりたい事が分かっていれば、こんな面倒な思いをしないで済むのではないか、と。
 
年末の大掃除は毎年やっている(やらされている)。
そうであればある程度の事は“ルーティン化”しているはずだ。
それが分かっていれば先回りしてあれをしておいた方がいいんじゃないか、これをしておいた方がいいんじゃないか、と訊く事が出来る。
 
掃除だけではない。
普段の食事もそうだ。
食事の支度、お皿、お箸、コップの手配などは毎日やっている事、いちいち聞かずとも出来るはずだ。
やりながら気付く。
何か用事を頼まれてイライラするのは事前に聞いていないからではないか、と。
 
 
いやいや単純に聞くとか聞いているとか、私が納得しているかとかではない。
「相手の状況」も含めて私が知っているかどうかが大事なのだ。
現在母は祖母の食事作りに心を砕いている。
祖母は食事療法が必要にも関わらず、きちんとしたご飯を食べない。
だからどうしても母がバランスの良い食事を作らなければならないのだ。
 
だから、自分の仕事であっても私の手を借りなければいけない。
それに、作業をしていれば、当事者の「抜けている」所も見えてくる。
それを指摘したり、先回りして解決する必要がある事も見えてくる。
 
なんというか、わずかではあるけれども分かるのだ。
 
自分がやらなければならない理由。私がやらなきゃいけないことが。
1年前の自分ならこうした事は殆ど分からなかった。自分の事に精一杯で、相手の都合など分からない。
分かろうとしない。
 
分かる事が出来ない、能動的に分かろうとしない、というではなく、心の構えとして分かろうとしなかったんじゃないかと、今では思う。
 
それは相手の状況、都合を知らないから。予想できないから。
 
だから与えられた仕事、お互いが納得した仕事だけをやればいいと考えていた。
 
しかし、もうそうではなくなってしまったらしい。
いろいろな人の都合というものを知るにつれ、事がスムーズに進む為に何を言うべきか、何をやるべきか考えるようになってしまった。
 
本来、こういう事はもっと早くに家族の中で培われるスキルのはずだ。
 
一人一人が勝手に生きるのではなく、みんながどうするか、みんなで何をするのかを考える。
誰かの都合を考えて、その都合を他の誰かに言う。
言葉で交わした内容だけで解を出すのではなく、あらかじめ都合や状況を知っておいて、それも含めて解を出す。
別に話してもいないのに自分の大事な事を訊かれるように。
 
 
考えてみれば、こういったコミュニケーションは昔から私の周りにあった。
母は井戸端会議をし、友人達はお互いの話をする。
私はと言えば、何かネタがないと話が出来ない。
 
 
上手くまとめられないが、誰かの都合、事情が分かって、それを含めて相手と話をして物事が上手くいっている時というのは、「脳が繋がっている」と感じられるのだ。
 
こちらが一方的にだけど。
 
そうやって繋がっている時は私は私だけではない。
家族やそこに存在する仲間の一員になっている。
いわば「私達」になっている。
 
そんな風に感じた事は今まで無かった、と言って良い。
そんな感覚になる事をずっと避けてきた、と言うべきか。
自分自身の良くないところに触れられるのが嫌でなるべく深いコミュニケーションを避けてきた。
 
そんな私がこんな気持ちを抱いたのは、「他人の都合を受け入れたから」なんじゃないかと勝手に想像している。