中身がないということ
最近自分の中身のことについて考えています。
自分で喋っていて、もの凄いうすっぺらだと感じることが多々有ります。
おそらく他者にも”あいつ何考えてるのかわからない”と思われているでしょう。
原因が何なのか。ある程度答えは見えているのです。
自分の中に他人がいない。他者と交流して生まれたなにかがないのです。
自分一人が考えたことや経験だけでものを話すから内容も中身もないのだと。
そう思うようになったのは先日、しばらく話していなかった弟と話す時に、身の回りの家族知人の話をしていればある程度会話も成立し、相手にも有益な情報を与えることができると思えた経験をしたからです。
今さらって思いました?
自分の事だけを話すのは出来ないわけじゃない。しかし自分の経験は大したものではありません。そもそも私が話したい事というのは読んだ本の感想とか、ニュースの話とか、見た映画の話等ばかりで、相手が気にいるかわからないものばかりです。
だからそういった話を振ろうにも振れず、何が何だか淡白な会話ばかりをしてきたのです。
そもそも会話する機会が少なかった。
この私の「人と繋がってない感」が相当空虚なものを生んでいた事は恐らく間違いないでしょう。
友達と話題を共有する事もせず、自分の興味ある事も話さない。
そう!この共有してない感、繋がってない感。
ただただ自分のやり方で勉強に挑みそれを誰にも話さなかったあの時。
相手がどんなやり方をしているか知れなかったあの時。
なぜ自分が他の人と違うのか?うすうす分かってはいました。小学校くらいの時から。
他者との情報の交流がない事が大きいのです。
あるやり方を試します。それを誰かに話す。間違っていると言われ、正す。
その過程の中で、相手がどのようなものの考え方をしているか知り、自分がどのような考え方をもっているかが相手に伝わる。
生身の他者を通じてきた情報が脳内体内を駆け巡る事で、自分自身が影響を受け、変化していきます。
こうして自分の中に自分以外の人間が存在する事になります。その数が増えてくる事によって、人の中身が増えてくるように思うのです。
私はと言えば、前述した事や下の記事に書いた事が要因で、会話をするということに大変引け腰でした。
単純に、「人に迷惑かけること」を恐れていたと思うのです。 誰かと繋がったらその人に迷惑がかかるのではないだろうか......。 自分が輪の中に入って迷惑じゃないだろうか......。 その考えが私の動きを遅らせていたと思います。
何故、人に知られることを恐れていたのか。 - 生存疾走更新
これでは中身が生まれるはずもありません。
本を読むことも動画を見ることも無駄ではありません。どれも人生を豊かにしてくれます。
しかし人を介して得られる情報量に比べれば、微々たるものなのではないでしょうか。
ネットで知ったことをネットでさらに調べて、他者に話さず自分の中に置いているだけで生きた情報と言えるのか?それで楽しいのか?
結局、人は人と繋がっていないとダメみたいです。
他者と話すと自分がぶれることはよくあります。
自分の中身のなさが露呈することも怖いです。
怖いんですよね、自分の事を話すのが。 このブログをやっている事をオフラインでは誰にも話していません。 このブログの事を話して、いろんな意見を聞いていくべきなんでしょうが、その時何を言われるかが怖い。 自分自身の事を話して、お前はそんな事をやっていていいのか、目標を叶えるだけのことをやっているのか言われるのが怖い。
自分の情報を開示しないのは、ある種ひきこもりと同じなのでは? - 生存疾走更新
でも、それは避けられない。
現実の自分をぶつけて違う自分にしていかないと、変わることはできないのだとかんがえているのです。
最近一人でいることに飽き飽きしているY_synchroです。
すこし調子が戻って来たので、ブログ更新を活発化させつつ、抜けた分を埋めていきます。