ぐずっても、最後までやる
やらなければならないことがあっても、他のすることを見つけて本当にしなければいけないことをやらない。
そんなことがあります。
それをぐずると言うのでしょう。
私はぐずる。
でも待つ。
きちんとやり終わるのを待つ。
待つのです。
ルーティンは順番が決まっているのが大事
やるべきことを書き出して、何をするかわかるだけでは、生活効率化になるわけではありません。
やることが分かって、それをどのような順番でやるかを決めていないと、毎時毎時何をするかの選択に時間を使わなければいけなくなります。
その時間が積み重なると、途轍もない日数になります。
10ある中から1つを選ぶより、3つの中から、1つに決まっている中から選んだ方が、時間は少なくて済む。
一度に複数のことは出来ませんし。
無駄に悩む時間は、減らします。
10考えなければいけないことを、3つ考えただけで疲れてやめてしまっていないか?
だいたいタイトルの通りなのですが。
考えるべき要素が多く、多く考えなければ物事が達成できない時に、頭に負担をかけたくない。
考える時間がない。
そんな時、考えることを分けて、少ない部分を見て、ある一部だけをやることで状況を打破しようとすることはある。
その時はいいんだけど。
後になってやるべきことが襲ってくる。
まったく把握してなかった(と、思ってる)ことが自分を襲います。
その時になって、何故自分はやっていなんだろう?
考えていないんだろう?
と、考えるのです。
これは考えるべきことを考えていないから。
10考えなければいけないのに、3つ(くらい)しか考えていないから。
少し考えただけで、疲れてやめているから。
この事実に気づく必要がある。
出来ていることだってある。
やりたいことができていないだの、実行ができていないなど、このブログで「やらなければいけないことができていない」話をいっぱいして来ました。
成長してますよ。
出来ていない事が多くある事を認めつつも、出来ている事だってあります。
- 炊事
- 洗濯
- 掃除
- 片付け
- 風呂(当たり前か)
生活ばかりだ。
逆に出来ていない事は
- 会計(まだ”毎日やる”が出来ていない)
- ブログ(今年に入って毎日更新がまた途切れています)
- 商品の仕入れと販売(一番大事なとこだよね?)
- 販売サイトの立ち上げ(今まで何をやっているのか?)
- 顧客の獲得
- 利益を上げる為の方法論の作成
もうちょっとだ。オレ頑張れ。
体が柔らかくないと、体はしんどい
疲れ果てていました。
なぜこうも突かれるのだろうかと。
体が硬いからです。
ストレッチしていないからです。
全然効果の上がらなかったストレッチをやっていなくての現状です。
柔らかい体にならなくても、より硬い体にしない為の効果はあったようです。
考えに考えてみれば、体が硬いとしんどいのは当たり前ですね。
それまでなら動かせた体の部位が動かせず、より大きな力をもって体を支えなければいけないのですから。
股関節付近とか、アキレス腱が大変張っていた。
腰で体を支えられない感覚があるのも当たり前だったんです。
体が柔らかくないと、体はしんどいですよ。
できない奴が集まれば、社会は助け合いの場ではなく、負担の掛け合いの場になる
みんなで力を合わせてなんて妄想
どこにそんな世界があるんだよ!
集団の平均点が達成目標の75%だったら、ちょっとは成り立ちますよ。
そうでなかったらどうにもならんでしょ。
出来る奴ばかりが集まったら助け合う必要が少なくて済むし。
互いを成長させるプラス効果が期待できるでしょう。
できない人間を助けるために助け合いや支え合いを口に出すのって、何を考えているんでしょうか?
本人が考えなければいけないことを代わりにこっちが考えてあげて、助けを出すことを求めているんでしょうか?
馬鹿げてる。
誰がするか。
負担を求めているだけだろ
誰だって思うでしょ。
自分以外の人間を助ける必要がどこにあるのかと。
自分に負担をかけてまで、自分が傷ついてまで、他者を助けて何になるのかと。
助けるだけの見返りはあるのかと。
自分で考えない人間を助ける価値はあるのかと。関わる価値はあるのかと。
こちらが助ける行動をとる意味や理由を理解しない人間に、関わる価値はあるのかと。
世の中の構造、人の心理、それらを見ない。
わからないまま、この世をさまよっているだけの人間に、何かする意味はあるのか?
意味がない。
人に助けを求める前に、自分で何とかすべきである。
特に自分事なら。
人に助けを求めるということは、その人を巻き込むということ。
それだけ他者の人生を狂わす大きなことなのだ。
足の引っ張り合い
できない人間は、できる人間の足を引っ張る。
できない人間の足も引っ張る。
あのね、まず自分がやらなければいけないことをやろう。
最低でも、これは自分事だから自分がやらなければいけないという必要性を理解しよう。
できるできないに関係なく、必要性を理解しましょう。
それが分かれば。
誰かに負担をお願いしているという状況が、おかしいことと気付くでしょう。
そのことを理解して他者に負担を請うのと、理解しないで請うのでは、激しく違います。
仕事はレバレッジを使う
レバレッジを使わなければ、自分が働いた分のお金しか稼げません。
10働けば10だけ。
しかしレバレッジを使うことで、10の働きが100の結果になって帰ってくる。
100なら1000。
大きいレバレッジを使えば、100が10000にも100000000にもなります。
どんなレバレッジを使おうと、0の働きだと見返りも0なので、こちらが働く必要はあるのですが、大きくある必要も、長時間働く必要もない。
そんな働き方をする必要がある。
それも早く。
どうやってレバレッジを使おうか。
そもそもどんなレバレッジなら使えるのか、と考えながら、小さい範囲ではレバレッジを使っていることに気づきました。
炊事と洗濯です。
フライパンや鍋に食材を入れて温め始めれば、出来るまでの間に他の作業ができます。
だいたい食器を洗うことが多いです。
数分間の間に、2つ(以上)の作業を進めることができる。
洗濯機に衣類を放り込んでスイッチを押せば、あとはこちらが何もしなくても洗濯が進みます。
当然その間に他の作業が出来る。
だいたい食事を摂っています。
これも1つのレバレッジと言えます。
もし、洗濯の間洗濯機の前にいなければいけないとしたら。
もし、フライパンの中の食材をずっと見ていなければいけないとしたら。
恐ろしく自分の時間が食われますね。
電子レンジを買ったのは正しかった。
定められた時間内に、2つ以上の仕事が出来るというのは、素晴らしいものです。
出来る人はとっくにやっている。
私ももっとレバレッジを意識して、活用していかなければ、より多くの成果を出せない。
努力はずっと続く。
お金を稼ぐ為の行動を取れば、お金は稼げる。
書いてみると当たり前なのですが。
行動が、なかなか取れないのですよね。
昨年行動しました。
その結果としていくばくかのお金は稼げました。
その事実は知っている。
行動さえ出来れば。
ここのハードルが高い。
難しくないんですよ!お金儲けって!
なのに動こうとしない。この体は。
思考を積み重ねます。
積み重ねる為の時間を作ります。
邪魔をするものがいっぱいある。
どうやってやるのかの問いが頭から頭に投げかけられて来る。
考えてるんだよ、今。
考えることも行動・実行の一つ。
悩んだり迷う時も、年初の目標に帰ればいい
やることが多かったり、期日に間に合わなかったりしそうなことが発生します。
あれ?こんなことやる予定だったっけか?と思ったりする。
もっと大きなもの・大きなことをやる為に今年があるはずなのに、目の前の生活に追われてしまっている。
毎日やることが20個近くあって、それをやっていないかばかり考えている。
多分、これは違う。
できた方がいいんだけど、自分が立てた目標を達成することに比べたら、取るに足らない事です。
年初の目標を忘れてはいけない。
生活に追われて、人生の目標を見失ってはならない。
今年立てた目標に帰るのです。
- お金持ちになること
- 体の疲れを取ること
- イメージトレーニングをすること。そのための時間を作ること
- 新しい自分として名乗りを上げること
これらのことに比べたら、日々の生活は問題ではない。
考える私と、動物の私と。
ここ数日、停滞が続いております。
何をすればいいかはわかっているんです。
わかっているのに。
体は動こうとしません。
動くことを拒否します。
疲れが原因ではある。
それは間違いない。
ただし。
疲れていない時も、同じように動いてこなかったのです。
その時と同じ原因が発生しています。
それは何か?
考えたくない私、本能に従いたい私がいるからです。
- 風呂に入ろうとしても寝っ転がっていたい、動画を見ていたいと思って動かず。
- 洗濯をするタイミングを逃し。
- 不要なPCを売却する作業は2週間以上経っても行わず。
- 掃除もせず。
- ストレッチもサボり。
- 会計もブログも書かず。
- 手帳の記録もしていない。
- やらなければならないイメージトレーニングもやっていない。
- メールボックスには未読のメールが溜まる。
- 自炊が出来ていない。
あーーー嫌になる。
こんなんだからお金儲けが出来ていないのに。
わかっているんだ。
わかっているんです。
それでも。
それでも。
やらなければならない時に、私は忘れます。
それも、「わかっていて」忘れるのです。
わかっていて忘れることをします。
忘れてないのに忘れることをします。
頭の中から追い出すのです。
何だろう?
わかっていながら、その時の欲望の為に自分の目的すら忘れようとするのか?私は。
凄い(?)な私は。
やりたくない気持ちは確かにあるんでしょう。
それでもね、やんなきゃいけないことはわかってるしその為の準備もエネルギーもやる気もあるはず。
それでもやらない。
動物としての私にとっては、お金儲けも、健康も、考えることも、こうでありたい自分も、何もかも関係なくどうでもいいのです。
”今”の自分が楽しいか、幸せかが大事なのです。
だから後の時間の為になるということを、積極的にやりません。
見えないようにする。
見なくする。
見えなくなれば、幸せになれます。
- お金儲けをしなければいけないことも。
- 支払いが数週間後に迫っていることも。
- コンビニ買いを続けていれば体が悪くなることも。
- 自分のお金がどれくらいあるかわかっていないことも。
- 次の仕事の準備をしていないことも。
見えない時は、どうでもいいことです!
見えなくなれば、存在しない!
自分を悩ませていた問題が、あっという間に消えます。
こういう解決の仕方もあるんですね。
解決してねぇよ。
来たるべき時に問題は降りかかってくるんです。
何回、何年同じことを繰り返しているんでしょうか。
と、言ったところで。
この性質は消えるものではありません。
弱体化することはあっても、消えることはないです。
何故なら、この動物的な性質は私の基本設定だからです。
おぎゃ〜と産声を上げた時からこの自分は始まっています。
「考える」自分が生まれるよりも古い時代から存在している。
そんな一番昔からいる存在を、そうそう追い払えるものではありません。
私よりも私らしい存在かもしれない。
私を私たらしめているものかもしれない。
この自分は確実に存在している。
考えれば考えるほど、見えてくる。
私の中に2つの私がいることに気付く。
考える私と、動物としての私。
前者の私こそが、「自分」だと思っている私です。
ここが第一の私です。疑いはない。
しかしこれが私の全てであるはずがない。
私を支配しているのは私の意識ではない。
人間としての、動物としての本能があって、そいつが私の運営に口を出す。
それも言語ではない発し方で。
この本能による動きは強力です。
ひとたび動き出せばあっという間に私を支配して、目的を忘れさせます。
出てきて欲しくない。
けど無視すればするほど干渉してくる。
ねぇねぇ遊ぼうよ〜と言っているようだ。
この私を屈服させるのは不可能な事に近い。
方法はあるかもしれないけど。
押さえつけるとか、黙らせるとか、そんなんじゃなくて、癒してあげて満足させなければいけないって気がするんです。
放っておくとダメになるし、自分が傷つく。
だからって、本能にいいようにされっぱなしも違うでしょ。
自身の動物的な部分、子供的な部分ではなく、未来の自分・大人としての自分にコミットしなきゃいけないんです。
必要なことをやる自分。やりたいことをやる自分。
イメージがあるのに出来ない理由は何か?
疲れはある。
でもこの子供な自分自身を満足させてあげていないことも原因なのではないか?
そう考えている近日です。