外部出力用の言葉
私は今こうしてブログで語っています。
主に自分に語っています。
ブログで言葉を重ねていたので、対人会話に役立ったということは、あるのです。
ブログを書いてきた経験が生きてきました。 ブログに書いていたことを言葉として出したのです。
自分の未熟さを感じるばかり - 生存疾走更新
が、自分の中で熟成させた言葉をそのまま他者との会話には使えないということも最近再認識しました。
自分の思っていること、やっていることをそのまま話して、自分の全てを知られたくないという気持ちがある。
嘘は吐けないので、出していい情報だけを出す情報管理が必要になる。
出したくない情報は出さない。
こうしていると、2つ(以上)の自分が存在することになる。
私が対峙する自分と、相手に見せている私。
この世界に人間が私一人しかいなかったら、後者の私は要らないんですけどね。どうしたって会話は発生する。
ずっと受け身でいたって発生する。
対面だと、相手が話すことにうんうんはいはいと頷いているだけではいられない。
相手が情報を出しているように、こちらも情報を出さなきゃいけなくなる。
まさに情報のやりとりがコミュニケーションなわけだ。
(これ返報性の原理ってやつじゃないのか?もらった分返さなきゃいけないっていう。私はいいようにやられてるのか。)
出さなきゃいけない情報や手札がある。
適当なものがない時は私は黙っちゃうんだな。
話せない私自身を私は中身がない奴だと思っていたのです。
まあ昔は何も考えていなかったので、本当に中身がなかったんですけど。
せっかく考えていて、語る言葉があるのだから、話してしまえばいいじゃんって思いましたか?
そうじゃない。
そうはいかない。
私は(まだ)そういう人間ではないのですよ。
自分の思ったことをそのまま話して受け入れられなかったり、嫌悪感を持たれたり、無反応されたりと、コミュニケーションには不全感を持っているのですよ。
生の自分やありのままの自分を出していったって望む対人関係が得られるわけじゃない。
人を相手にする際は、技術が必要になります。
相手を知る方法、必要なことを聞き出す技術、自分が誰であるかを示すやり方、相手に警戒心を持たれない振る舞い方、その相手が受け入れ易い人間はどういう人間で、どうすれば自分がそうなれるか......
などなど。
”何も考えないで”他者とぶつかっても自分が誰かすら話せません。
で、
- 一体あなたは何が言いたいのですか?
- どうしてここに来たの?
- 何がしたいの?
こんな質問ばかり投げかけられることになります。
ありますよね?ありますよね? こんな経験。
今数多くの人が昔の嫌な記憶を思い出したでしょう。
私もその一人です。
これらの質問は他者から言われる前に、自分で自分に質問を投げかけて、答えを出しておかなければいけない問題です。
ここに答えを出せていないと、自分自身に対する答えも、外部の他者にいう言葉も、ないのです。
発言に困窮する。
その順番は、まず自分の中の答えを出して、そこから外に出せるものを取捨選択して公表することになる。
土台となる自分の部分が大きくないと、表に出て来る自分も小さくつまらないものになる。
私はそれだけの人間なのか?